最愛の人の死と向き合う方法

私が今の時点で導き出した最愛の母の死と向き合う方法は、この2つです。
①母が心配しないように一人前になる。
②母の食べたかった物を食べる。
母の身に何が起きたのか・・・お伝えしたいと思います。
2023年 9月、最愛の母が亡くなりました。あまりに突然で何もできず言葉を失うばかり。
毎日家に帰ったら「おかえり。お疲れさん。」の声が聞こえていたのに・・・・
今思えば、7月頃「お腹の具合がわるいねん。」と言っていたことが始まりでした。なぜ、あの時すぐに精密検査に行くように強く言えなかったのかと今でも後悔しています。
母と私は、喧嘩することもありますが、一般の親子というより親友であり、姉妹のような関係でした。
母は、なんでも卒なくオールマイティに物事をこなすタイプの人でした。それとは、真逆で私は、おっちょこちょい。好きな事や得意な事には集中して努力ができるタイプでした。
母が7月の下旬頃「お母さん癌やったみたい。笑えるやろ。今の時代は、治療も進んでるから頑張るわ。」と笑いながら話をしてきました。
「癌って。どれぐらい悪いん?」
「そんなたいしたことないみたいや。心配せんといて。治療頑張るからな。心配かけてごめんやで。」
その時、もしかしたら・・・結構状態が悪いのではと・・・胸騒ぎを覚えました。
それから検査から2日後。
「病院の先生が娘さん来て貰うように言われてるねん。一緒に病院行ってくれる。」いつもとは違う笑顔で言うのです。2度目の胸騒ぎ。
翌日、病院に付き添いました。病院に着いた途端、看護婦さんが母に車椅子に乗るように促すのです。
これはただ事ではないのだと愕然としました。
目の前が真っ暗になるというのはこの事です。
この瞬間を忘れることは、生涯ないと思います。
車椅子に乗った母は、「大層な。私歩けるで。心配せんといてや。」私は無言でした。
順番が来て、病室に入り。
先生から
「恐らく子宮癌です。とても進行しています。すぐに大学病院へ紹介状を書きます。
今日が金曜日なので土日を挟むので月曜日には大学病院へ診察に行ってださい。
娘さんとだけ話しをしたいのですが・・・お母さん大丈夫ですか。」
「私は、娘と一緒に話聞きます。今話をして下さい。」
「私だけで聞くからお母さん病室の外で待ってて。」
「絶対嫌や。自分のことやから。」
気が強い母らしい言葉でした。
結局、母のいない所で先生とお話しました。
信じられない内容でした。
緩和ケアの話がこのタイミングで出たのです。
絶対に母を失いたくなかった私は、まずかかりつけ医に電話連絡しました
大学病院の紹介状を待つことができなかった私は、その日の内に懇意にしているかかりつけ
医に、直接電話をかけて大学病院へ今日の内に入院できるようにお願いしました。
一刻を争う状態。
痛みが、耐えられない激痛に変わることが現時点で分かっているなんて・・・
幸運な事にかかりつけ医の先生が、大学病院と直接話をつけてくださいました。
かかりつけ医の先生は、京都大学の有名な教授でもあるので大学病院もベットが空くまで待ってくださいとは言えなかったようです。
かかりつけ医の先生からは、
「気をしっかり。これから寝れない日々やし、本人は激痛に苦しむから支えてあげて。 がんばってや。いつでも電話しておいで」と言ってくれました。
金曜日の夜に、母は大学病院の婦人科に入院しました。
入院の準備の為、一旦家に戻り、疎遠だった父や母の親友とコンタクトをとったりしました。
入院に必要な物の準備の後は、入院や検査に関する同意書の山に泣きながらサインをして父を待ちました。
父は、驚いて落胆した様子でしたが、母には一切その様子を見せることはありませんでした。
母の闘病生活中、父の存在が心の支えになりました。
大学病院に入院して2週間の間、様々な検査と治療そしてペインコントロールが続きました。
母の病状は、とても進行していて、腹水が溜まっている状態でした。
母は、「妊娠したみたいやわ。毎日ティシュの箱一杯くらい胆汁を吐いてしまうのがしんどいわ。」と他人の事のように笑いながら言っていました。
私は、泣いてしまわないように我慢するのが精一杯でした。
約2週間後、正式な診断がありました。
母の病名は、「ステ-ジ4の虫垂癌。虫垂癌から子宮や体の他の臓器にも転移をしている状態。」でした。
虫垂癌は、とても珍しい癌で近年患者が急増しているターボ癌なのだそうです。
検査結果を聞いた時は・・・何かの間違いだ。悪い夢だ。
「なんでうちのお母さんがそんなことに。神様なんで。」と・・・
そして、大学病院のお医者さん達から3日以内に病院を転移して欲しいと言われました。
もう治療しても無駄ということです。
そんな簡単に追い出すような・・・・
治療を放棄してしまうような言い方をするなんて・・・
母は、ごめんね。と苦笑いするだけでした。
私と父は展開の速さについて行くことができずにいました。
3日後緩和ケアの病院へ救急車で移動しました。
なぜか、母は心穏やかな様子だったので、私は胸騒ぎを覚えました。
緩和ケアの病棟に移ってからの数週間については、まだ文字にすることも辛いので心の整理がもう少しできてからお伝えできたらと思います。
もし、叶うなら天国にいる母に、もう一度逢いたい。
もう一度母の笑顔が見たいです。
そして、今までありがとう。大好きだよと伝えたい。